リック・ホールとフェイム・スタジオ

meiteizz2005-03-19

アメリカ合衆国アラバマ州マスル・ショールズ、フェイム・スタジオのオーナー:リック・ホールは、1961年のアーサー・アレキサンダーのヒット曲「ユー・ベター・ムーヴ・オン」に続き、1962年のジミー・ヒューズの「アイム・クウォリファイド」のヒットで、自身のレーベル「フェイム」を設立することを決意した。

そのフェイム・レーベルからヒット曲が出たのは、1964年のジミー・ヒューズの「スティル・アウェイ」。
この曲は、アーリー・ソウルの名曲として、今なお歌い続けられているが、配給元(ヴィー・ジェイ)の力不足もあり、ヒット曲は出るが、ぱっとしない状態が続き、また、フェイム・サウンドの確立も、まだまだであった。
そんなフェイム・スタジオのサウンドが注目されたのは、1966年の(またまた)ジミー・ヒューズの「ネイバー・ネイバー」のヒットがきっかけだった。

そのヒットに注目した各レコード会社のプロデューサー達が、興味を持ち始め、やがてチェスやベル、そしてアトランティックまでが、フェイム・レコーディングを始めて、フェイム・スタジオの黄金期がやってくるのであった。
チェスでは、エタ・ジェイムスやボビー・ムーア&リズム・エイセス、ベルではジェイムス&ボビー・ピュリファイが、そしてアトランティックではアレサ・フランクリンがフェイム・レコーディングでヒットを飛ばしていった。
また、フェイム・レーベルではキャンディ・ステイトンがヒット(キャピトル配給)を飛ばし、フェイムからメジャー:アトランティックへ昇進したクラレンス・カーターもヒットを飛ばして行き、リック・ホールは、マスル・ショールズ=フェイム・サウンドを確立したのである。

フェイム・レーベルのヒットはしなかったディープ・ソウルの名曲、'70年代のマスル・ショールズ・スタジオの台頭、失速していくフェイム・スタジオ、それを取り巻くライター達のアルバム・デビュー、アーサー・アレキサンダーのアルバムなどなど、その辺は、そのうちにゆっくりと・・・・。